2018年1月1日月曜日

208 復活の軌跡

208 復活の軌跡 (一)歓喜の回復
 2011年4月20日、病院から4月9日におこなったPSA検査結果の連絡が入ることになっていた。医者からは「9時過ぎに連絡します」といわれていたが、9時を5分過ぎても連絡がないため、待ちきれずに病院に電話した。
「一島さんはホルモン療法が効くタイプです。PSAは2.50、前回より良くなっています」。医者からの報告を聞いた時、おもわず飛び上がるほど喜んでしまった。

食事療法を始めるときの目標が「PSAが4を切ること」だったが、この目標が食事療法を始めて5カ月目に達成したことになる。
「ガンは消えたのですか」と思わず医者に聞いてしまった。
医者は「ガンは眠っている状況です。ガンが治るということでなく、ガンを眠らせた状況を維持して10年から20年寿命を延ばせます」
「PSAマーカーが4以下は正常な人のこと、今回、数値は4以下だが、ガン患者の場合は判断基準にならない」という話だった。
ガンが消えたわけではないが、全身に転移していた進行ガンが、休眠状況に入ったことは嬉しいことである。これは、食事療法とホルモン療法の相乗効果によって達成されたわけである。

PSAの推移を振り返ってみよう。
2010年9月22日は721、
10月20日は786と絶望的な数値が続いた。
12月22日、食事療法を始めて42日目、ホルモン療法を始めて36日目、PSAは
97と二桁に大きく改善した。1カ月ちょっとという短期間に、786から97へ88%減と一挙に変化したのには驚かされた。この変化には、大いに勇気づけられた。

2011年1月19日、食事療法を始めて71目、ホルモン療法を始めて65日目のPSAは36とさらに大きく改善した。
4月9日、食事療法を始めて98目、ホルモン療法を始めて92日目のPSAは2.5。
一挙に一桁の下に来てしまった。
わずか100日足らずでこんな急激な変化を見たら、誰でも喜ばずにはいられないと思う。

(二)生活実感は二進一退一喜一憂
 ところでPSAマーカーは順調に推移していたが、生活実感としては劇的な改善というよりは二進一退、一喜一憂であった。

(1)痛むところが移動している
 先に触れたように、痛みが始まったのは2010年11月6日であった。直腸に突き上げるような痛み、太ももの裏側、右肋骨、右足坐骨あたりに痛みと違和感があり、歩行が不自由になった。この痛みは11月20日ごろまで続いた。
 一度収まった痛みが、11月29日には恥骨の左・足の付け根に腫れと痛みが移動した。この痛みは12月21日ごろまで続いた。痛くて眠れないときは、腫れたところに手を当てて「ガンがどんどんちいちゃくなる、ガンがどんどんちいちゃくなる」と唱えた。「どんどん」というリズム音が眠気を誘うのだろうか、いつしか眠りについた。それでも眠れないときもあって、そんなときには、クッションを背中にあて、これに寄りかかるようにして寝た。いくらか痛みが緩和されたようだ。

 1月14日からは、左肩のコリと右ひざに痛みがきた。肩コリは床に横になると痛くなる。眠れないくらいの痛みである。この痛みは、今までに体験した痛みとは違う。血流が悪いせいかと思い、寝る前に軽い柔軟体操をしてみたが、効果はなかった。結局、この肩コリは、4月に入ってからのウォーキング、鉄棒へのぶら下がり(足を着きながら)によってよくなった。
 私の実の姉が、肺ガンで苦しみながら亡くなっていくのを見ているだけに、他の人以上にガンの痛みに対する恐怖をもっているのかもしれない。さいわいにして、歩行に困難な痛み程度ですんだが、間歇的に痛みが移動するたびに不安にさいなまれた。

(2)はじめて手足の冷え症を体験
 肺炎が治りかけた12月中ごろから、手足の冷え症が出てきた。いままで経験したことがないことで戸惑った。これまでは、真冬でも足の先を布団から出して寝るくらい、足がいつも火照っていたのに、足が冷たくて眠れない。太ももに足先を当てて暖めてからでないと寝られない毎日だった。
この冷え症は3月の声を聞くころ消えていったが、冷え症と痛み、それにトイレに起きなければいけないと、この冬の間は散々だった。

(3)隔靴掻痒・これも春先まで続いた
 もうひとつ悩ましかったのは、物事がいつもぼんやりしていることであった。食器を片付けているときに、しっかり握っているはずが床に落として割ってしまうことが、再三あった。物を見ても、何かベールに覆われた感じがしていた。この感覚は冬の間続いたが、春になって徐々に薄皮がはがれるように消えていったのは助かった。

(4)髪の毛が黒くなる
 2011年2月になって、はっきりと髪の毛が変わったのがわかった。髪の毛が抜けなくなり、白い髪の毛が黒くなってきたし、禿げ上がっていたところに産毛が生えてきた。先に、アメリカでガン治療を行なった人の髪の毛が生えたことに触れたが、自分の体験からも追認できた。我がことながら驚いた。
 さらに驚いたことに、一緒に野菜ジュースを飲んでいる家内も、髪の毛が抜けなくなり、白い髪が黒くなってきた。お互い髪の毛を見ながら、黒くなったねと驚いている。家内は薬を飲んでいないから、薬が原因ではない。改めて野菜ジュース・食事療法の凄さを認めざるをえない。
細胞は3カ月で生まれ変わるといわれているが、髪の毛だけでなく、顔の皮膚が変わったのを感じる。土色だった皮膚が肌色を取り戻し、つやも出てきた。体中の細胞が生まれ変わってガンが消えていくのが目に見えるようで、鏡を見るのもうれしい毎日である。

(三)生かされていることに感謝
ガンとの闘病を経験して、自分は生かされていると感じている。

第一は、「全身に転移した進行性のガンだったため、ホルモン治療しか治療法がなかったこと」であった。
これは、多くのガン患者が経験する、抗ガン剤、放射線の副作用を味わわなくてもよいことを意味する。同時に、医者だけに頼らず、自分自身でも努力しようと覚悟が決まり、「ガンに克つセルフ治療」「食事療法」に打ち込むことができた。安保徹先生の「免疫学」関係の本を読むと、あらためて食事療法の効果に確信が持てた。

第二は、東日本大震災のときに感じた。書斎でパソコンをいじっていたが、地震の発生と同時に居間に移動した。そして、たまたまその日来ていた3歳の孫の手を握りながら、一緒に震えていた。
地震が静まって書斎をのぞくと、私の机の背後にあった二段重ねの本箱が落下し、本が散乱し、ガラスが割れ、カーテンレールが落ちているすさまじい状況であった。二段重ねの本棚の上段には、ボックスに入った重い本がつめてあったから、書斎にいれば間違いなくこれの直撃をくらっていて、TVに報道される事件になっていたかもしれない。まさに孫に、感謝、感謝である。生かされていると感じる出来事であった。

第三は、春とともにウォーキングができるようになったことである。冬のあいだ、肺炎で体力がなく、自宅にこもっていたが、PSAの改善と、体力の回復、気温の上昇によって、4月から歩けるようになった。萌えるような新緑に、おもわず生かされていると感じないわけにはいかない。
先の章で生活実感を述べたが、ガンとの闘病は決して順当にきたわけではない。惑わされる出来事も多くあった。だから、自分は生かされている、必ず治すという気持ちを持続し続けることが大切で、途中であきらめてはいけないと心に言い聞かせてきた。

 長男が2011年の東京マラソンに参加したが、そのトレーニングウエアを次男が作った。胸のところには「アキラめない」とある。「アキラ」は私の名前「晃」にちなんだもので、ガンとの戦いを「アキラめない」、また長男にはマラソンを最後まで「アキラめない」で完走するということをかけて作られたものある。
 長男が走っている時、沿道から何回も「アキラ、諦めるな!」と声援をかけられたという。私はこのシャツを着て、ガンとの戦いを「アキラめない」との思いでウォーキングに励んでいる。
後日長男から送られてきた写真には孫をふくむ長男家族全員が「アキラめない」のシャツを着ている。家族の絆を感じてしまう写真であった。
(423アキラめない写真参照)

422ウォーキングの楽しみ方
 ウォーキングの話が出たところで、少しウォーキングについて触れてみたい。家から西に500メートル行くと花見川サイクリングロードに出る。
4月にウォーキングを再開した時、長男の助言を入れて、歩き方を変えた。背筋を伸ばし、丹田に力を入れて、肘を後ろに大きく振る。こうするときれいな姿勢になり、つまずかなくなった。今までは、前かがみの前傾姿勢で、足をできるだけ前に出そうとしていたが、この姿勢だとよくけつまずいた。
毎日、同じような時間に歩いていると顔見知りができる。挨拶するのは気がひけるが、したしみをこめて「ニックネーム」をつけるのは楽しみである。
ウォーキングの楽しみの中に、囲碁仲間との出会いがある。4月、久しぶりに会った人から、最近見られませんが、仲間内では「碁敵と喧嘩でもしたんですかね」と話していたという。まことにけしからん噂話である。川柳にあるように「碁ガタキは憎しもにくし懐かしき」。それでも誘われると血が騒ぐ。もう少し気力(棋力?)が回復したら出かけていこうと思っている。 (2011.5.25記)

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